京都朝鮮第二初級学校

▼校長挨拶▼

<民族教育は「夢」と「希望」、「未来」がたっぷり詰まっているよりどころ>

 1945年8月15日、我が朝鮮は35年間の植民地支配から独立しました。
 植民地支配によって生じた貧困と生活難、徴用、徴兵等、様々な理由により日本に渡ってきて居住していた朝鮮人=同胞(在日朝鮮人=在日同胞)たちの数は当時、240万人にのぼりました。
 独立後まもなく在日同胞1世たちは必然的に帰国を急ぎます。
 そして、日本で生まれ育った子女たちへの教育に力を注ぐことになります。
 もちろん、学校も校舎もありません。
 在日同胞1世たちは様々な手を尽くし家屋や部屋を設け、母国語教育を始めます。
 教育施設とはとうてい言い難い自前の「学びの場」は「国語講習所」と呼ばれ、雨後の筍のように全国各地で開講されていきます。
 やがて、「国語講習所」は正規の教育体系を整える「学校」としてその面貌を変えることとなります。
 こうして民族教育、朝鮮学校(ウリハッキョ)の幕が開き、同じ頃、殆どの在日同胞たちは帰国事業にも力を注いでいきます。
 しかし、GHQと日本当局は、在日同胞たちの帰国事業を妨害し、アメリカの主導による朝鮮半島の分断とそれに伴う政情不安は、多くの在日同胞たちに日本定住を迫ることになります。
 そして、GHQと日本当局は、全国の朝鮮学校に対し、閉鎖令を発令し弾圧を加えます。(1948,49年)
 このように様々な紆余曲折を経ながらも在日同胞1世を中心とする同胞たちは、犠牲を顧みず自分たちの民族的尊厳と自主性、民族教育の権利、朝鮮学校を守り抜く活動を行います。
 そんな最中、共和国(朝鮮民主主義人民共和国)はこれら在日同胞の現状を憂慮し、民族教育の発展の為、国家予算として在日朝鮮人子女のための教育援助費と奨学金の送金措置を執ります。(1957年から今日まで)
 この措置、配慮は言うまでもなく在日同胞たちに大きな「夢」と「希望」、輝く「未来」を抱かせ、民族教育は発展の軌道に乗ります。
 京都も例外ではありませんでした。
 本校も共和国の配慮にあやかり、夢と希望、輝く未来を抱いた右京、西南、中京地域のの在日同胞たちの力をもって、1965年4月20日に京都市西京区下津林の一角に建てられたプレハブの校舎としてその産声を上げます。
 続いて、新校舎の落成式が同年、10月に盛大に行われ、京都市右京区梅津尻溝町に京都朝鮮第ニ初級学校が設置されることとなります。
 このように、本校は、歴史的にみても同胞たちの要求からみても、異国の地で民族を守り発展させて行くための真の民族学校であります。
 一貫して母国語を主体に自分たちの歴史や文化を習い民族性を育み、今日では日本社会、国際社会で通じうる力を育む為の教育にも力を注いでいます。
 基礎学力を身に付け、礼儀、道徳を守り、お互いに助け、支え合いながらも切磋琢磨するために自ら行動をおこしていく教育に重きを置き、何よりもウリハッキョでしか身につけられない感性と感覚、民族に対する自覚と民族を思う心を育む教育こそが、民族教育がもつ最大の魅力だと考えています。
 また、この地域で唯一「民族」を感じる事が出来る心のよりどころとして、団結した在日同胞たちの力で維持、発展してこれたことも本校の特徴であり、魅力であります。
 そればかりではなく、日本の友人たちとも「違い」を認め合いながら、「友好」、「親善」、「共生」を掲げ、近隣の小学校との交流会を深め、また、サッカーの大会では京都市の強豪チームとして名を馳せ、芸術部門では様々なコンクールで優秀な成績を収めてきました。
 この過程は、多くの日本の方々から朝鮮学校に対する正しい知識、認識をを持っていただくことに繋がっていき、地域の発展の為に役割を果たすことにも繋がっていきました。
 そして半世紀の時が過ぎ、2015年4月に学校創立50周年を迎えることとなりました。
 半世紀の間、1,200名以上の多くの卒業生たちが巣立っていきました。
 卒業生の多くは、1世たちの尊い思いを胸に刻み、在日朝鮮人社会の未来の為に活躍しています。
 また、卒業生たちが本国と日本の架け橋となる為に、日本の社会でも様々な分野で活躍し、日本の社会の発展にも寄与していることは、まさしく日本の地域社会が掲げる多文化共生の理念に合致するものだと確信しています。
 そして今日、在日1世同胞たちが築き上げ、2世、3世によって守り発展を遂げたウリハッキョには4世、5世の子供たちがが通う学校になっています。
 同胞たちの半世紀の歴史と伝統、在日同胞たちの思いがいっぱい詰まっている本校は、これからも在日同胞とその子供たちに「夢」、「希望」、「未来」を抱いてもらえるよりどころとして、また、同胞社会、日本社会に貢献できうる立派な人材を育んでいく学校として、教育水準をより一層、向上させていきます。